2006年 09月 01日
秋の空気 |
雨があがって一夜明けると、一気に秋めいたさわやかな朝。自転車通勤には最適な日和だが、昨日からの首筋の「寝違い」が悪化し、右腕をあげることも、顔を横に向けることも苦痛。泣く泣く自転車は諦めて、車で通勤した。一部には、これは寝違いではなく、マウス操作のしすぎ=フリーセルのしすぎによる腱鞘炎ではないかとの説もあるが、そんなバカなことはないと思いたい。
ところで某君が非常に感銘を受けたと印象を記していたタラル・アサド『宗教の系譜』が届いたのでさっそく読んでみた。手にしてみるとそれは論文集で、そのなかの半分--特に本書の中心をなす第二章~第4章---はすでに読んだことのあるものだったので、ちょっと残念。彼の儀礼論は、90年代に私が儀礼論を中心に民族誌をまとめる際に、最初は議論に組み込む予定で、結果的には割愛したもの。儀礼を象徴的行為として分析する人類学の一般的傾向に異論を唱えるという点で、私の主張と共通していたのだが、着地点が違いすぎるので、かえって議論が錯綜してしまうことを恐れて割愛したのだった。
アサドは儀礼を象徴的行為とみる人類学理論を直接攻撃するかわりに、そうした考え方がどのような歴史的経緯で登場してきたのかを示すことによって、つまりその考え方の歴史性を示すことによって、それを批判するという形をとる。それが特殊近代ヨーロッパ的概念であることが示される。彼によると中世の修道院では、儀礼は、日々の労働から祈りまでのさまざまなキリスト教的自己を形成する訓練プログラムの一部であり、「外面における行動」と「内面における動機」は、この修道のプログラムの中で一体となって形成される徳の不可分の構成要素であった。しかしこの両者がルネサンス期以降の政治文化のなかで分離する。そこでは真の自己を包み隠す「表象」をたくみに操作することが社会生活の主要な要素である。フォーマルなマナーは、賢明なる「公共的道徳性へのコミットメント」の伝達にとって本質的な象徴的行動としてとらえられることになる。
このように彼は、儀礼を象徴的行為として眺めることがもっともらしく見えるにいたる歴史的経緯を解き明かして見せ、儀礼を一種のコミュニケーションと見てそれを解読しようとする人類学の主流に対して、儀礼をある社会において自己形成するプログラムの一部としてみるべきだという視点を提唱する。
しかしこれは結局、儀礼という概念を特殊近代西洋的な限定された文脈から解き放つのだが、それを再び、中世西洋という同じく特殊西洋的な文脈に着地させてしまうことになる。奇妙なことに彼自身はその分析の中で、何を儀礼と呼び何を儀礼と呼ばないかについてわかりきったことであるかのように語り続ける。あたかもある実践を儀礼的と呼ぶために、それが修道院の中で行われている実践であるという事実がありさえすれば十分だといわんばかりなのである。彼は儀礼を自己形成の訓練の実践であると言うが、実際には修道院の中でおこなわれているこうした訓練をすべて儀礼的と呼ぶところから始まっているのだから、それは単にトートロジーにすぎないことになる。90年代に儀礼論を展開していたころ、私にはこのアサドの議論はきわめて中途半端なものに見えた。『秩序の方法』における私の議論をご存知の方には、なぜ私がそう考えたのか理解していただけると思う。そもそもそこで私がとりあげたどの儀礼の例をとっても、自己形成の訓練装置などとして機能していそうなものはひとつもない。すでに十分に長すぎた議論をさらに錯綜させないためにも、アサドの儀礼論はそこでは扱わないことにするしかなかった。
というわけで期待して取り寄せた『宗教の系譜』の中心部分はすでに私にはさんざんおなじみのものだったと判明したわけだが、この論集で初めて読むことになった論文もあった。第一章のギーアツ批判もその一つである。ここでも彼の採る手法は「歴史化」である。「今日の人類学者が自明のことのように思っているもの-宗教は本質的に象徴的な意味に関わるものであり、その象徴的な意味は(儀礼と教義のどちらか、あるいはその両方を通じて表現される)一般的秩序の観念に結びついているということ、宗教全般に共通する機能/特徴があるということ、そして宗教をその個々の歴史的あるいは文化的な形態と混同してはいけないということ-は、実のところ、キリスト教固有の歴史を背負った見解なのである。」というわけである。ここでも彼の批判対象は、宗教を象徴にかかわるものと考え、象徴の解読を研究の中心にすえた主流のアプローチである。その意味で解釈人類学のギーアツが槍玉に挙げられることは不思議ではないし、ここでも批判の方向は私と共通している。しかし彼がギーアツを批判するそのやり方自体は、必ずしも感心できるものではない。その多くは、実際にギーアツが言っていないことをギーアツの主張として語り、あるいはギーアツの特定の引用をとんでもない方向に誤読=再解釈し、それを批判するという体なので、私は、おいおい本当にギーアツはそんなこと言ってたっけと、何度もギーアツの原文を参照しなおす羽目になった。いちいち細かく挙げることはやめるが、こういう類の批判をおこなう人は、バカなのか、悪意があるのかのいずれかである。私は自分がその両方であるので、それがよくわかる。
さて冒頭の某君だが、上で述べたようなことはおよそ彼の関心の範囲にあることには思えないので、彼がアサドのどこに感銘を受けたのかちょっと不思議に思わないでもないのだが、おそらくこの論集のために書かれた序章が、現代的な文脈からするともっともインパクトが大きい主張を含んでいると言えるかもしれない。彼はそこで、周辺社会の人々をグローバル化や資本主義の一方的な犠牲者とは見ず、彼ら自らも歴史を作る主体だとして持ち上げる最近の傾向に冷水を浴びせている。こうした周縁社会の主体性、歴史の作り手としての主体性を強調する立場は、実際には圧倒的な力の差の下にこれらの社会が生きているのだという現実をおうおうにして隠蔽してしまう。どのような境遇におかれていても、当然人は自分なりのやり方でなんとかそこに適応しようと、独自の文化的な論理や即興的な工夫をおこなう。しかしそのことをもって人々が自分たちのやり方で歴史を作っているのだと言って、いったいどんな慰めを得ようと言うのか。「極端な例を挙げるならば、強制収容所の収監者でさえ、この意味では、彼ら目らの文化の論理で生きることができる。だが、彼らはそれゆえ「自らの歴史を創っている」などと言っていいものか、疑うことは許されるだろう。」(5)これはいわゆる日常的抵抗論を胡散臭く感じる私の見解と同じ認識である。虐げられた犠牲者として哀れまれていた人々を、歴史の作り手や抵抗の主体として今度はやたら持ち上げすぎているのである。そしてそのことによって彼らの境遇がやっぱりとても恵まれたものとは言いがたいという事実を隠蔽することになる。
さらに彼はエージェントと主体(サブジェクト)を区別し、歴史を作る作り手というエージェント観念そのものが、特殊西洋近代的な観念、進歩思想と不可分に結びついた観念であることを示す。ちょっと長くなるが引用しよう。
「昔のキリスト教徒は歴史的時間を救済の待望の内に捉えていた。これが新たに登場した合理的予想という世俗的な習慣と結合したのは、十八世紀のヨーロッパにおいてである。かくして近代の進歩の概念が生まれることになった(Koselleck 1988 p17)。エージェンシーの哲学もまた発展し、個人の行為を集団的傾向に結びつけることを可能にした。啓蒙主義哲学者に始まって、ヴィクトリア朝時代の進化論的思想家を経て、二〇世紀後半の経済・政治的発展のエキスパートに至るまで、一貫して流れているものは、ある一つの仮定である。-歴史を創るだめに、エージェントは未来を創造しなければならない。改造を成功させる基準が普遍的なものと認められる限りは、自らを改造し、他者の改造を助けなければならない。古い宇宙を覆して新しい宇宙を創造しなければならない-。そうであるとするなら、普遍的目的論の背に乗らずして歴史を創ることはできないだろう。」
歴史の作り手という持ち上げ方自体が胡散臭いのである。
では、こうした批判からいったい何が見えてくるだろう。私は読み終えて、少し居心地の悪い思いをしている。儀礼論のときもそうだったのだが、アサドと私は批判の方向性は常に同じである。しかしその後の着地点がどうも違っているようなのだ。すでに読んだことのある部分の再読も含めて、もう一度アサドの議論とじっくり向き合ってみたい。
(Mamiya new6 + 75mmL f3.5)
by Kalimbo_Mwero
| 2006-09-01 23:36
| anthropology
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