2006年 08月 07日
フーコー誤訳/超訳! |
今日は外出20分。近所の神社の散歩のみ。
You might own more head. Get sun or hat. Suck not!(「言うまいと、思えど、今朝の暑さかな」の英訳だと高校時代に教わった。別バージョン You might think, but this morning's hot fish! よりも音訳に徹しているのがいい。)ではないけれど、今日はちょっと頭に来た誤訳(?)の話など。
実は今日、学生に夏休みの宿題(後期に向けての予備知識)として課した本の一冊に目を通す予定だった。フーコーの『臨床医学の誕生』。25年ぶりに読むことになる。ただし今回はせっかくだから日本語訳で楽をさせてもらおうと。ところが、以前読んだときにはとてもわかりやすくクリアだったはずの議論がなんだかちょっとわかりにくい。第4章の冒頭に至って、ついに昔読んだ英訳を引っ張り出してきて対比することになった。
まずは神谷美恵子による日本語訳
「一八世紀末の数年以来、医学が自らの過去を考えるときには、時間に対して二つの関係を持ってきた、と自ら規定する。その考えかたによれば、医学の中で、単に歴史にすぎないものは時間へのてん落にすぎず、これはもろもろの理論に関するものである。知識のからみあいの中で、「体系論」一般は不変式を形成し、これを出発点として、もろもろの理論の特殊な変異が、各瞬間において可能になり、同時に持続においては不可能となる。しかし、他方においては、医学の歴史性は、非体系に属する。すなわち臨床医学と呼ぱれる、もう一つの不変式に属する。この歴史性によって、医学の真理はある時間の中で操作され、その中で維持され、歩み、完成へと向うが、完成に至ることはない。一方には諸体系の歴史があり、これは、時間とともに過ぎ去るものの歴史であって、明白であり、かつ不毛なものであるが、他方には、臨床医学の歴史がある。時間を越えて、医学に意味を与え、その真理を維持するものを語るのが臨床医学の歴史である。この歴史は完全に時間の内にあるわけでもなく、時間の外にあるわけでもない。なぜならぱ、それは時間と真理とが結ぴつく、かの王国の敷居であり、鍵であるからである。」
これを一読して、その意味がとれた人は天才だと思う。私は何が言いたいのかまるでわからなかった。フーコーは難しいというのが通説ではあるが、じっくり読んでも読み解けない思想家であると思ったことはない。ある意味わかりやすい思想家なはずなのだ。
さてこの箇所、英語版では
Medicine had tended, since the eighteenth century, to recount its own history as if the patient's bedside had always been a place of constant, stable experience, in contrast to theories and systems, which had been in perpetual change and masked beneath their speculation the purity of clinical evidence. The theoretical, it was thought, was the element of perpetual change, the starting point of all the historical variations in medical knowledge, the locus of conflicts and disappearances; it was in this theoretical element that medical knowledge marked its fragile relativity. The clinic, on the other hand, was thought to be the element of its positive accumulation: it was this constant gaze upon the patient, this age-old, yet ever renewed attention that enabled medicine not to disappear entirely with each new speculation, but to preserve itself, to assume little by little the figure of a truth that is definitive, if not completed, in short, to develop, below the level of the noisy episodes of its history, in a continuous historicity. In the non-variable of the clinic, medecine, it was thought, had bond truth and time together.
普通に和訳するとざっと以下のとおりである
「18世紀このかた、医学は自らの歴史を、その思弁の下に臨床的証拠の純粋さを覆い隠してしまう、絶えず変化する諸理論や諸体系との対比において、患者のベッドの傍がつねに持続的で安定した経験の場であったかのように語りがちであった。理論的なものは、たえず変化する要素であり、医学知識の歴史的な変異が始まる地点であると同時に、葛藤や消滅の場であると考えられてきた。まさにこの理論的要素において、医学知識の脆弱な相対性が顕著となるというわけである。それに対し、臨床的なるものは、その実証的な蓄積の要素だと考えられてきた。患者のうえに変らずそそがれるこのまなざし、昔ながらの、それでいてつねに更新され続けるこの注視のおかげではじめて、医学は、新しい思弁があらわれる度に跡形もなく消え去ってしまうことなく、自らを保持し、完璧とは言わないまでも、少しずつ、決定的な真実という姿をとるようになることができたのだと。ようするに、(この臨床的な経験のおかげで)歴史の騒々しい数々の挿話の水面下で、医学は一つの連続的な歴史性において発展することができたのだと。臨床という不変項のもとで、医学は真理と時間とを結び付けてきたのだと考えられていたのである。」(一部適当な意訳含む)
そう難しい話ではない、というかむしろ実にわかりやすい話である。フーコーは、この「神話」をふまえたうえで、この章の冒頭で述べられているように、患者のベッド傍での経験、つまり臨床経験はけっしてこうした不変項ではなく、「この経験が提示され、分析可能な要素に整序され、言説形式を獲得するまさにその枠組みそのものがつねに変化している」こと、それゆえ医師のまなざしの方向付けの全システムが、それぞれの時代においてさまざまであったことを論証しようとしている。つまり医学にギリシャの昔から一貫した経験的基礎があったという考え方自体を打ち壊そうとしているのである。
さてこの二つの訳、なんでこうも違うのだろう。前者が誤訳だとしても、ただの誤訳というには度を越している。まるでぜんぜん別の話のようですらある。
もちろんフランス語の原本が手元にないので最終的判断は下せない(近日中にフランス語版もチェックする予定)。もしかしたらそれぞれの訳が依拠している版が違うという可能性もある。
それにしても、邦訳が日本語としてほとんど意味不明だということは否定できない。こんな日本語でフーコーを勉強させられる日本人学生は気の毒だとしか言いようがない。
(補足)結局、日本語訳と英訳を対比させつつ読む羽目になり、時間がかかってしようがない。おそらく英訳の方にも問題がないわけではない(数行に渡ってぬけていたりもする。版の違いという可能性が高い)が、二つの対比で言えば、あきらかに日本語訳はよりひどい訳だと断言できるかもしれない。あからさまに誤訳だと思われる箇所も多いのだが、微妙な「てにをは」操作によるニュアンスの勝手な付け加えで、まるでずれた論旨になってしまったりしている箇所もあり、そういった微妙な「誤訳」がすべて読者の理解を妨げるトラップになっている。
列挙するときりがないが、一例を挙げると
「共和暦二年第二月二六日に国会にあてて提出された陳情文は、ポワソニエール地域の、カロンという者によって記されたものだが、大学で養成された医師の中にも、俗物の「いかさま師」がいることを告発し、これらの者に対して国民は防衛されることを望んでいる、と述べている。しかし、きわめてすみやかに、この恐怖は逆転し、危険はむしろ医師でない、いかさま師の側にみとめられることになる。」(神谷訳)
"A petition addressed on 26 Brumaire Year II
to the Convention and drawn up by a certain Caron, of the Pois-
sonniere section, was still denouncing doctors trained by the
Faculty as vulgar 'charlatans' against whom the people wished to
be defended. But this fear soon took on a different shape, and
the danger was seen to come from the real charlatans who were not
doctors."(英訳 by A.M. Sheridan)
背景となる知識
(1)18世紀のフランスにおいて大学における医学教育が役に立たないとして不審の目でみられていたこと。
(2)テルミドールの反動以降、多くの医師が軍隊に志願して、その間隙をぬうように、なんの教育も訓練も受けていない「いかさま医師」が横行したこと。
英訳の方を日本語に直すと以下の通り。
「 共和暦二年ブリュメール二六日に国会にあてて提出された、ポワソニエール地域のカロンなる人物によって起草された陳情文は、あいかわらず、大学で養成された医師たちを悪質な「いかさま師」だと非難していた。これらの者から国民を守ることが望ましいと。しかし、この恐れはすぐに形を変えた。いまや危険は、医師でない本物のいかさま師に由来するものだと見られたのである。」
どうだろう。英訳の方が、はるかにわかりやすく、前後の文脈との関係でも筋が通っている。それに対して神谷訳は、大学で養成された医師についての表現が微妙にニュアンスのちがうものになっているせいで、文意がよれてしまっている。
まあ、重箱の隅をつつくようなつまらない指摘ではあるが、神谷訳はこうした微妙な誤訳に満ち溢れているのだ。正しい読解が不可能になる仕掛けがいたるところに施されているといった按配である。余計なことはしてくれるなといいたい。書いてある通り直訳してくれた方がよほどよい。
by Kalimbo_Mwero
| 2006-08-07 21:26
| anthropology
|
Comments(2)
そう云えばむかし学校で大橋洋一先生の現代批評理論講義を受けてた時、某翻訳者が訳したデリダか誰かの脱構築理論を指して翻訳自体が脱構築されててメタ的と揶揄してたような。
いつ頃からか、日本語ができない翻訳者が増えました。
あ、こんな昔の記事にコメントしたのは、ランキングに上がってたからです^^
いつ頃からか、日本語ができない翻訳者が増えました。
あ、こんな昔の記事にコメントしたのは、ランキングに上がってたからです^^
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Commented
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Kalimbo_mwero at 2013-03-14 16:58
おやおや~。
絵日記同然のブログで閲覧者が極少なので、数名が特定のページを見ると、あっという間にそのページのランクが上位に来るという、日替わり弁当状態であると判明。
ところで日本の知的状況はいまだに翻訳文化ですので、肝心要の翻訳がよれていると、とんでもないことになってしまいますね。
絵日記同然のブログで閲覧者が極少なので、数名が特定のページを見ると、あっという間にそのページのランクが上位に来るという、日替わり弁当状態であると判明。
ところで日本の知的状況はいまだに翻訳文化ですので、肝心要の翻訳がよれていると、とんでもないことになってしまいますね。