2005年 05月 01日
パッチワーク |
福岡には昨夜帰ってきた。28日の京都での研究会発表、法事、父の遺品の整理(大量のカメラをどうするか)、高校時代の友人との久しぶりの再会などなどいろんなことを一行程でこなそうとすると疲れる。
問題の研究会だが、何か自分でも新しい展開を期待していたのだが、結局は過去のさまざまな観点のつぎはぎに終始してしまったのが残念だった。反照規定性の問題が行為論・実践論においてもつ特別な含意を明示しようという狙いがあったのだが(日常的抵抗論についての批判は、いわばその一例として取り上げただけで、本当の主題ではなかった)、終わってみると、(1)行為は、特定の叙述(実際に言葉でそう語られるかどうかという問題ではなく、言語化されないスキームのようなレベルでのそれも考慮すべきだろう)を介してしか社会的空間には送り込まれず、またそれを通してしか他の行為と社会的に渡り合うことはない---これは、言うまでもなくアンスコムの行為記述についての所論と、行為の相互関係は、そして行為の社会的効果は、外的因果関係ではなく意味を介しての内的理由関係だというP・ウィンチの議論をくっつけただけのものだ---、(2)この場合行為がそのもとで捉えられるところの叙述は、薄い記述に対する厚い記述(ライル)、低い記述に対する高い記述(中川)にあたるものであるとも言えるが、前者のようにそれは行為をテキストのように読む解釈という過程を含意せず、後者のようにそれを境界をもったゲームの指し手に見立てるわけではない---とはいうものの説明ではかなりゲームの比喩に傾いていたように思う。もっとも同じ「手」が無数の異なる、境界線のはっきりしないゲームの指し手になりうるようなそうした状況をつねに想定した上でだが。そして自分がどのゲームをプレイしていたのかがつねに曖昧になり自己決定できないということも想定した上でだが。っていうかここまで限定つけてまだその比喩を使うかね---、(3)それは叙述実践という折衝可能な実践を通じて行なわれるのであるが---やれやれエスノメソドロジーにまた逆戻り---、(4)叙述に用いられる当の言葉のなかに、その叙述を通じて、その行為がいかにコンテクストに、そして他の諸行為に関係付け可能であるかその可能性が畳み込まれていて---これは再びゲームの比喩への危険すぎる接近だ、あるいはプリブラムのフレームとかスクリプトとかの議論と結局おんなじじゃないかと言われそうだし---、(5)したがって叙述実践そのものが行為をコンテクストに、そして他の行為につなぎ、社会的現実を生成するところの社会的過程の構成的一部であるから---またエスノメソドロジー、でもこれは重要だ。でも人類学の実践自体にどんなふうにこれが跳ね返ってくるのだろうか。それとも人類学や部外者の分析者を取り除いた endogenous なプロセスだけに限定してやればいいのか、そんな限定がそもそもできるのか---、(6)行為を記述する概念を分析者がまるでコンテクストフリーの概念であるかのように使用するのは問題である---字面だけみると、あまりにもありきたりな結論!だからコメンテーターのSさんにニーダムらの議論と同じ!と勘違いされてしまったりするのだ---ということを指摘しただけで終わってしまった。
このすべての点で、私は端がほつれていること、オープンエンドであること、ずれがあること、偶然性を強調したのだが、これらを単なる逸脱としてでなく、ここで問題になっている社会過程にとって本質的なものであることを、説得的に示すのには失敗した。ずれやノイズが社会的現実の生成---秩序化、秩序の可視化---において最も重要な要素であることを、まだ明瞭に理論化できていない。なんのことはない。いろいろな観点をパッチワークのようにつなぎあわせただけで、なんの新しい方向性も確保できなかった。
問題の研究会だが、何か自分でも新しい展開を期待していたのだが、結局は過去のさまざまな観点のつぎはぎに終始してしまったのが残念だった。反照規定性の問題が行為論・実践論においてもつ特別な含意を明示しようという狙いがあったのだが(日常的抵抗論についての批判は、いわばその一例として取り上げただけで、本当の主題ではなかった)、終わってみると、(1)行為は、特定の叙述(実際に言葉でそう語られるかどうかという問題ではなく、言語化されないスキームのようなレベルでのそれも考慮すべきだろう)を介してしか社会的空間には送り込まれず、またそれを通してしか他の行為と社会的に渡り合うことはない---これは、言うまでもなくアンスコムの行為記述についての所論と、行為の相互関係は、そして行為の社会的効果は、外的因果関係ではなく意味を介しての内的理由関係だというP・ウィンチの議論をくっつけただけのものだ---、(2)この場合行為がそのもとで捉えられるところの叙述は、薄い記述に対する厚い記述(ライル)、低い記述に対する高い記述(中川)にあたるものであるとも言えるが、前者のようにそれは行為をテキストのように読む解釈という過程を含意せず、後者のようにそれを境界をもったゲームの指し手に見立てるわけではない---とはいうものの説明ではかなりゲームの比喩に傾いていたように思う。もっとも同じ「手」が無数の異なる、境界線のはっきりしないゲームの指し手になりうるようなそうした状況をつねに想定した上でだが。そして自分がどのゲームをプレイしていたのかがつねに曖昧になり自己決定できないということも想定した上でだが。っていうかここまで限定つけてまだその比喩を使うかね---、(3)それは叙述実践という折衝可能な実践を通じて行なわれるのであるが---やれやれエスノメソドロジーにまた逆戻り---、(4)叙述に用いられる当の言葉のなかに、その叙述を通じて、その行為がいかにコンテクストに、そして他の諸行為に関係付け可能であるかその可能性が畳み込まれていて---これは再びゲームの比喩への危険すぎる接近だ、あるいはプリブラムのフレームとかスクリプトとかの議論と結局おんなじじゃないかと言われそうだし---、(5)したがって叙述実践そのものが行為をコンテクストに、そして他の行為につなぎ、社会的現実を生成するところの社会的過程の構成的一部であるから---またエスノメソドロジー、でもこれは重要だ。でも人類学の実践自体にどんなふうにこれが跳ね返ってくるのだろうか。それとも人類学や部外者の分析者を取り除いた endogenous なプロセスだけに限定してやればいいのか、そんな限定がそもそもできるのか---、(6)行為を記述する概念を分析者がまるでコンテクストフリーの概念であるかのように使用するのは問題である---字面だけみると、あまりにもありきたりな結論!だからコメンテーターのSさんにニーダムらの議論と同じ!と勘違いされてしまったりするのだ---ということを指摘しただけで終わってしまった。
このすべての点で、私は端がほつれていること、オープンエンドであること、ずれがあること、偶然性を強調したのだが、これらを単なる逸脱としてでなく、ここで問題になっている社会過程にとって本質的なものであることを、説得的に示すのには失敗した。ずれやノイズが社会的現実の生成---秩序化、秩序の可視化---において最も重要な要素であることを、まだ明瞭に理論化できていない。なんのことはない。いろいろな観点をパッチワークのようにつなぎあわせただけで、なんの新しい方向性も確保できなかった。
by Kalimbo_Mwero
| 2005-05-01 23:15
| anthropology
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